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90年代半ば。様々な若者がひとつの“家”に寄り合い子育てに奮闘した実践的共同保育「沈没家族」
母はどうしてたったひとりでこの“家族”を始めたんだろう? 20年の時を経て、おぼろげだった僕の“家族のカタチ”が見え始めた    
時はバブル経済崩壊後の1995年。地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災が起き、世相がドンドンと暗くなる中、東京は東中野の街の片隅で、とある試みが始まりました。シングルマザーの加納穂子が始めた共同保育「沈没家族」です。ここに集まった保育人たちが一緒に子どもたちの面倒を見ながら共同生活をしていました。そこで育ったボク(監督:加納土)が「ウチってちょっとヘンじゃないかな?」とようやく気づいたのは9歳の頃。やがて大学生になってあらためて思ったのです。
ボクが育った「沈没家族」とは何だったのか、“家族”とは何なのかと。当時の保育人たちや一緒に生活した人たちを辿りつつ、母の想い、そして不在だった父の姿を追いかけて、“家族のカタチ”を見つめなおしてゆきます。
映画祭で新鮮な感動を呼んだ卒業制作ドキュメンタリーが熱い期待に応えて、ついに【劇場版】として公開!
加納土監督が武蔵大学在学中の卒業制作作品として発表したドキュメンタリー映画『沈没家族』は、“家族のカタチ”を捉えなおす軽やかな語り口で観客に新鮮な感動を呼び、PFFアワード2017で審査員特別賞、京都国際学生映画祭2017では観客賞と実写部門グランプリを受賞しました。
学生作品ながら、その後も新聞やテレビ等各メディアで取り上げられ続け、ついに劇場公開となります。一般公開にあたり、卒業制作版から再編集を経てバージョンアップ。さらに音楽を、その卓越した言語感覚とリズムで注目度MAXのバンド“MONO NO AWARE”が担当し、新たに書下ろした曲「A・I・A・O・U」を提供。格段にスケールアップした『沈没家族 【劇場版】』として生まれ変わりました。
90年代半ば、東京の片隅で試みられた共同保育の試み
1995年、シングルマザーだった母・加納穂子(当時23歳)が、加納土監督が1歳のときに、共同で子育てをしてくれる「保育人」を募集するためにビラをまき始めた。「いろいろな人と子どもを育てられたら、子どもも大人も楽しいんじゃないか」という加納穂子の考えのもと集まったのは独身男性や幼い子をかかえた母親など10人ほど。毎月の会議で担当日を決めて、東京・東中野のアパートでの共同保育が始まった。母・穂子が専門学校やその後の仕事で土の面倒をみる時間が取れないときに、当番制で土の面倒をみていた。「沈没家族」という名称は、当時の政治家が「男女共同参画が進むと日本が沈没する」と発言したのを聞いて腹を立てた穂子が命名。
約1年半後、アパートが手狭になったこともあり、他の数組の母子や保育人とともに5LDKの一戸建てアパートに引っ越した。「沈没ハウス」と呼ばれたそのアパートには3組の母子と数人の若者が各部屋に居住し、生活を共にしながら育児も分担し、居住者だけでなく多くの人が出入りする場所だった。「沈没家族」は、家族の新しいかたちとして、またストリート・カルチャーのオルタナティブな生活実践として当時注目を浴び、メディアでもたびたび取り上げられた。
改めて知った「沈没家族」の風通しの良さ     映画自体が交流を促してくれるんです
1994年生まれ、神奈川県出身。武蔵大学社会学部メディア社会学科の卒業制作として本作を2015年から撮影を始め、完成した作品はPFF等の映画祭で評価された。卒業後はテレビ番組会社に入社し、ドキュメンタリーや情報番組の制作に従事しながら、本作の「劇場版」の公開に踏み切った。本作が初監督作品。
十数年ぶりに再会した「沈没家族」
この人たちはどんな風に暮らしていたんだろう?
Q:まず最初に、本作を撮影するきっかけは何だったのでしょうか?
土:4年前、十数年ぶりに沈没家族の人たちに再会したのが大きなきっかけです。2014年に僕の二十歳の誕生日に母としのぶさんが声をかけて、当時、沈没家族に関わっていた人たちで「沈没同窓会」が開かれました。合宿所みたいな所におじさん、おばさん、若者から小学生までぞろぞろと30人くらい集まってきて1泊2日酒を飲んだり、当時の写真のスライドショーを見たり。彼らと会うのは、ほぼ十数年ぶりだからめちゃくちゃ緊張していました。集まった保育人の中でも顔と名前がぼんやり一致する人もいれば、全く誰だか見当もつかない人もいました。 大人たちはみな、懐かしそうに当時の思い出話をして、僕と会って泣いている人もいたんですけど、顔も名前もわからない。「土と怪獣ごっこをしたらしいおじさん」と話してても僕は苦笑いするだけでした。この人たちってどんな人なんだろう?沈没家族ってどういう風にうごめいてたんだろう?そんなことを同窓会が終わった後、ずっと考えていました。そして同時にみんなが語る「加納 土」というどうやら可愛いらしい赤子を僕はどうしても自分のことだと思えませんでした。
ドキュメンタリーの魅力的な題材としての「沈没家族」
映画という大義名分で保育人と会っていく
土:そこから2015年になって、通っていた武蔵大学のゼミの卒業制作を作らないといけなくなったので、題材として「これにしよう!」と思って『沈没家族』の撮影を始めました。元々ドキュメンタリー映画はよく見ていたので、「沈没家族」って自分がそこで育った子どもじゃなくても面白い題材だよなあ、というのは思ってました(笑)。
あとやはり大きいのは、保育人たちのことをもっと知りたいって思った時に「食事でもどうですか?」って誘うのはめちゃくちゃ恥ずかしかったので、卒業制作で撮りたいっていう大義名分があることで、恥ずかしがらずに会えるなって思ったんです。そういう意味では「おそらく僕を保育したであろう大人たち」と会って話したい、そして「沈没家族」がなんだったのかを知りたいというシンプルな欲求が制作のきっかけです。
無茶苦茶な印象だった母の記憶
閉ざされない環境を作ってくれたことへの感謝
Q:母・加納穂子さんが、沈没家族にとっても加納監督の人生観にとってもキーマンのように思えます。子として、監督としてどう思いますか?
土:子どもってどこで生まれるかとか、親の職業がなんだとか、親の年収がいくらだとかって選べないじゃないですか。そういう意味で僕はすべての「子ども」ってデフォルトで自己決定権がないから可哀想な存在だとは思うんです。そういう意味では、沈没家族のような環境で育ったらものすごいトラウマになってしまう子どももいると思うんですが、僕はそうじゃなかった。 母が沈没家族を始めたのは、大人一人子一人という状況で閉ざされた環境になったら自分が楽しくないし、自分が楽しくない状況でこどもとすごしていたら、それは子供にとってもよくないからという思いが強いと思います。で、そこで彼女はたくさんの大人たちと子どもを育てようとした。僕が今、母に一番感謝している部分って多分そこなんですよね。自分が無理だって時に、たくさんの大人と一緒に育てることを思いついて、それを実行に移したということ。そしてそれは彼女にとっても僕への一番の「愛情」だったと思うんです。親が、子どものそばにずっといて愛し続けなければいけないという言葉って今の社会でもあるかしれないけど、僕にとっては多くの人に助けを求めたっていう母の決断によって、今生き延びることができているので、子どものそばにずっといることだけが「愛情」ではないよ、と思いますね。壮大な人体実験の結果、そう思っています(笑)。
自分が生まれた90年代半ばからの不安な空気が今も続いている
目的が求められる窮屈な現在の日本/目的を求めない「沈没家族」の在り方
Q:沈没家族という試みは90年代半ばという時代の雰囲気が見え隠れします。監督から見て当時の空気や家族観、また2019年現在のそれらも含めてどう感じますか?
土:僕が生まれたのが1994年でその翌年に、地下鉄サリン事件とか阪神淡路大震災が起きるんですよね。少し前にバブル崩壊して、Windows95が発売されてインターネットが身近なものになるのも1995年あたりを境に物事が劇的に変わっていく時代だったんだと思います。僕は高校2年生の時に森達也監督の『A』を観てドキュメンタリーって面白いなあと思い始めたんですが『A』では特に、オウムを徹底的に糾弾する日本を通して、人が信じられなくなっている時代を映しているように僕は感じました。これも森さんが言っていることですけど、地下鉄サリン事件があって、日本は集団化に拍車がかかり、異質なものを排除するようになっていったというのは僕もそう思います。
既存のものとは違うということが、全て正しいわけではないと思うけど、なぜ他人が選択したそのカタチを認めることができないんだろう、その人にどんな不利益があるんだろう?というのはいつも不思議に思います。90年代半ばというのはそういう空気が現れ始めた時代だったのかなと。僕は2019年の日本は「理由が求められる時代」だと考えています。何か強いモチベーションがないとできない、気持ちが落ち込んでないとできない、夢がないとできない、目標がないとできないっていう風に社会が動いていってるんだと思います。でも、沈没家族にはそういったものが必要なかった。ただ自分にとって楽だからそこにいるってことが認められる場って、僕はめちゃくちゃいい場所だなって思います。当時も、沈没家族は異質なものとして周りから疑いの目を向けられてはいたのだと思うけど、そういう時代だったからこそ、集まった人たちにとって沈没家族は「排除しようとする社会」からのシェルターだった部分もあると思います。
映画製作がきっかけで再会した人、新たに出会う人
見た人にとってポッとロウソクのように灯る希望の映画に
Q:最後に、完成した作品をどのように観てもらいたいですか?
土:卒業制作を作り始める時は、沈没家族を含め自分の過去を知らないから、そして関わった人たちに会ってみたいからという理由で作り始めたんですけど、実は映画を世に出した後も沈没家族との出会いは続いていて、自主上映会が終わった後に「実は、俺も土くんをだっこしたことあるんだよ」っていってくれる人とかがかなりいるんですよね。急にそれ言われたら僕も「ええ!」ってなっちゃうんですが(笑)、映画を作ってそれを出さなかったら彼らとの出会いはなかったわけだし、めちゃくちゃ嬉しいですよね。それに、今までは「沈没家族」で育ったということをあまり人にはいっていなかったけど、映画を出したことでそれまで関わりがなかったであろう人たちとたくさん友達にもなれました。なんというか交流を促進する映画なんだと思います。
また、卒制版をこれまで上映して時に感じたのは、この映画は観た方のためにもなっているんだなと感じました。上映が終わった後に、多くの人が肩の荷が下りたということを話してくれるんですけど、まさしく僕もそう感じて欲しいというところはあります。
沈没家族をどう捉えるか、それは多くの人によって違うと思います。ただそれでも子育てをしている方や子どもと交流がしたいって思っている方はもちろん、そうじゃない方も、あ、こんな世界があったんだって知って欲しいです。自己責任とか、人に迷惑をかけるなとか、息苦しい世の中でこの映画が、見た人にとってポッとロウソクのように灯る希望の映画になったら嬉しいです。
「劇場版」に彩取りを加える主題歌はMONO NO AWAREが書下ろし!
卒業制作版から「劇場版」へ再編集するにあたり、タイムレスなスケールが魅力的な新進気鋭のバンド・MONO NO AWAREが参加。メンバーのうち二人が加納土監督と八丈島の高校の同窓というご縁で実現しました。 書下ろしてくれた主題歌「A・I・A・O・U」は、映画のオープニングとエンディングを観た上でイメージを膨らませてできた曲。スケールの大きさに驚くこと必至です。また、二つの挿入歌はMONO NO AWAREのボーカル・ギターの玉置周啓名義での書下ろし曲。こちらもどうぞお楽しみに!
| PROFILE |
東京都八丈島出身の玉置周啓、加藤成順は、大学で竹田綾子、柳澤豊に出会った。
その結果、ポップの土俵にいながらも、多彩なバックグラウンド匂わすサウンド、期待を裏切るメロディライン、言葉遊びに長けた歌詞で、ジャンルや国内外の枠に囚われない自由な音を奏でるのだった。
FUJI ROCK FESTIVAL’16 "ROOKIE A GO-GO"出演、翌年には投票からメインステージに出演。
2017年3月には、1stアルバム『人生、山おり谷おり』をP-VINEより全国流通。同年8月ペトロールズのカヴァーEP『WHERE, WHO, WHAT IS PETROLZ?? – EP』に参加。2018年8月に2ndアルバム『AHA』を発売、恵比寿LIQUIDROOMワンマン公演を含む初全国ツアーを成功に収める。数々の国内大型フェスに出演し、海外アーティストのサポートアクトを務めるなど、次世代のロックバンドとして注目を集める。